「人から認められたい」「失敗したら、自分には価値がないような気がする」「もっと頑張らなければいけない」――そんな思いに疲れてしまうことはありませんか。
私も長い間、「もっと強くなりたい」「周りから認められたい」と思いながら空手を続けてきました。努力すること自体が悪いわけではありません。努力したからこそできるようになったこともありますし、自信につながったこともたくさんあります。
でも、あるとき気づいたのです。私は空手が強くなりたいだけではなく、「強い自分でありたい」という思いに縛られているのではないか、と。そこから私は、「そもそも、自分って何だろう?」と考えるようになりました。
空手の稽古、瞑想、そして仏教の「無我」や「空」という教えに触れていく中で、少しずつ感じるようになったことがあります。自分をなくす必要はない。けれど、「こういう自分でなければならない」という思いは、少し手放してもいい。
この記事では、人の評価や「自分らしさ」に苦しんできた私自身の体験を通して、自我に縛られずに生きるとはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
なぜ私たちは「自分」にこんなに苦しめられるのか
もっと強くなりたい、認められたいと思っていた
私は空手を長く続けています。稽古を始めた頃から、「もっと強くなりたい」「試合で勝ちたい」「周りから認めてもらいたい」という気持ちはありました。それ自体は、決して悪いことではありません。目標があるから稽古を続けられますし、悔しい思いをしたからこそ努力できたこともあります。
ところが、いつの頃からか、単純に空手が上達したいという気持ちだけではなくなっていました。「強い人だと思われたい」「負けたくない」「できない自分を見られたくない」――そんな気持ちまで一緒についてくるようになったのです。
これは空手に限った話ではないと思います。仕事で評価されたい、家族から認められたい、人から嫌われたくない、失敗して恥をかきたくない。私たちは知らないうちに、周囲から見た「自分」を守ろうとしているのかもしれません。
結果を出しても、なぜか満たされなかった
もちろん、結果が出ればうれしいものです。試合で勝ったり、以前できなかった技ができるようになったり、人から褒めてもらったりすれば自信にもなります。
しかし不思議なもので、一つ結果を出すと、今度はその結果を失うことが怖くなります。もっと上へ、もっと強く、もっと認められたい。気がつけば、終わりがありません。
その頃から私は、ときどき考えるようになりました。何のために、こんなに自分を証明しようとしているんだろう、と。「もっと」という気持ちは成長の力にもなります。しかし同時に、それに縛られてしまえば苦しみの原因にもなる。私は少しずつ、そのことに気づき始めました。
「自分って何だろう?」と考えるようになった
そもそも「自分」とは何なのでしょうか。自分の体でしょうか。頭の中に浮かぶ考えでしょうか。名前でしょうか、肩書きでしょうか。空手家としての自分でしょうか、誰かから評価されている自分でしょうか。
こうして考えてみると、「これが絶対に自分だ」と言えるものは意外にはっきりしません。体は年齢とともに変わります。考え方も、好きなものも嫌いなものも変わります。立場や人間関係も変わりますし、昨日と今日で気分さえ違います。
それなのに私たちは、「自分はこういう人間だ」と決めつけてしまうことがあります。「自分は弱い」「自分は人付き合いが苦手だ」「自分は失敗ばかりする」――そうやって、自分で作った「自分像」に苦しめられていることもあるのではないでしょうか。
仏教の「無我」は「あなたが存在しない」という意味ではない
ここで私が興味を持ったのが、仏教の**無我(むが)**という考え方でした。最初に聞いたときは、「自分が存在しないということなのか」と思いました。しかし、私は今、そんな単純な話ではないと理解しています。
自我とは何か
私たちは日常生活の中で、「私はこういう人間だ」「こう思われたい」「こうでなければならない」という「自分」を作っています。それは社会生活を送るうえでは必要なものでもあります。名前も役割も責任もあります。
問題になるのは、それを絶対に変わらない本当の自分だと思い込んでしまうことです。「負ける自分には価値がない」「人から嫌われる自分ではダメだ」「弱い自分を見せてはいけない」――そうなってしまうと、自分で作った自分像を守るために苦しくなります。
無我とは何か
仏教の無我は、私たちの日常的な人格や存在そのものを否定する教えではありません。私は、「永遠に変わらない、固定された『私』を握りしめなくてもいい」という教えとして受け取っています。
体も、感情も、考えも、人間関係も変わる。それなら、「今の自分が、この先ずっと同じ自分である必要はない」とも言えます。これは私にとって、とても救いになる考え方でした。
「空」とは、何も存在しないという意味ではない
「空(くう)」も、私は最初「何もない」という意味だと思っていました。しかし、単純な「無」ではありません。
私たちは一人だけで成り立っているわけではなく、無数の条件や関係の中で生きています。今の自分も、これまで出会った人、経験したこと、育った環境、体の状態、その日の気分など、さまざまなものとの関係の中で成り立っています。だからこそ、今の自分を固定して考える必要はない。私はそう考えるようになりました。
瞑想で「自分へのこだわり」が薄れ、心が軽くなった
瞑想を続けていると、ときどき不思議な感覚になることがあります。呼吸している、外から音が聞こえる、体の感覚がある、考えが浮かんでくる。そして、その考えもいつの間にか消えていきます。
そこで気づきました。考えが浮かんだからといって、その考えが「私そのもの」ではない、と。
「嫌われたらどうしよう」「失敗したくない」と思うことはあります。でも、「私はダメだ」と決めつけるのと、「今、自分は『ダメだ』という考えを持っている」と気づくのでは、ずいぶん違います。後者なら、その考えから少し距離を取ることができます。呼吸に戻ればいい。また今に戻ればいい。
私にとって瞑想は、「自分を消すため」のものではありません。むしろ、自分について考えすぎている状態から、一度離れる時間なのだと思っています。そうすると、不思議と心が軽くなります。
空手でも「自分」が消えたときのほうが動ける
これは空手でもよく感じることです。「勝たなければ」「失敗したくない」「格好悪いところを見せたくない」――そう考えすぎると、体に力が入り、動きも遅くなります。相手を見ているようで、実際には頭の中の「自分」を見ているのです。
反対に、余計なことを考えず、今この瞬間の相手の動きだけを見る。すると、体が自然に動くことがあります。
私が空手で大切にしている「脱力」も同じです。力を出そう、強く打とうと力めば力むほど動けなくなる。必要なときだけ力を使い、それ以外は余計な力を抜く。心も似ているのかもしれません。「自分をよく見せなければ」という力みが抜けたとき、本来の動きが出てくる。
私にとって空手と瞑想は、まったく別のものではなくなってきました。どちらも、余計なものを足すより、余計な力を抜く――そこに共通するものを感じています。
人の評価に苦しんだときは「本当の自分」を探さず、今に戻る
今でも、人からどう思われているのか気になることはあります。認めてもらえればうれしいですし、批判されれば落ち込むこともあります。仏教を学んだからといって、そのような感情がなくなったわけではありません。
ただ以前と違うのは、感情が起きたときの見方です。まず「ああ、今、自分は認めてもらいたいと思っているな」と気づく。それだけでも少し距離ができます。次に「この気持ちが、自分のすべてではない」と考える。そして一度呼吸をして、「では、今できることは何だろう」と目の前へ戻る。私は、この繰り返しで十分だと思っています。
「本当の自分」を見つけなければならない。「自分らしく生きなければならない」。そんなことさえ、新しいプレッシャーになってしまうことがあります。
本当の自分を一生懸命探さなくてもいい。人から認められる自分を作り続けなくてもいい。失敗した自分を、いつまでも責め続けなくてもいい。今ここで、自分にできることを一つやる。それだけでもいいのではないでしょうか。
まとめ|自我をなくすのではなく、自我に縛られない
人から認められたい、強くなりたい、失敗したくない。こうした気持ちそのものを、私は悪いものだとは思いません。私にもありますし、おそらく、これからもなくならないでしょう。
大切なのは、それをなくすことではなく、「それが自分のすべてではない」と気づくことだと思います。「強い自分」でなければならない、「評価される自分」でなければならない、「失敗しない自分」でなければならない――そんな固定された自分から少し離れるだけで、心は軽くなることがあります。
空手では、力を抜いたときに自然な動きが出ます。瞑想では、考えを追いかけるのをやめたとき、ただ呼吸している自分に戻れます。人生も同じなのかもしれません。
自我をなくそうとする必要はありません。ただ、自我に振り回されている自分に気づいたら、一度呼吸してみる。そして、「今、自分にできることは何だろう」と目の前へ戻る。それだけで、少し自由になれるのではないでしょうか。


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