「最近はベテランと呼ばれる立場になったが、初心を忘れていないだろうか」
「人から評価されるほど、かえって自分の慢心が怖くなる」
長く仕事を続けたり、組織の中で立場が上がったりすると、このような不安を感じることってありませんか?
周囲の人が丁寧に接してくれるようになり、自分の意見も以前より通りやすくなる。
それ自体は悪いことではありません。
しかし、周囲の対応に慣れてしまうと、いつの間にか「自分は偉い人間なのだ」と錯覚してしまうことがあります。
私自身、空手を長く続け、道場の中では少しずつ上の立場になってきました。
会社で一時期、管理職を経験したこともあります。
だからこそ最近、昔の先生から何度も聞かされた言葉を、改めて思い出すようになりました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
仕事、武道、家庭、地域活動など、どのような場所でも、自分を見失わずに生きるための戒めになる言葉だと思っています。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とは

稲が実をつけるほど穂先が重くなり、自然と頭を下げる姿を、人間の生き方に重ねた言葉です。
知識や実力、経験を積んだ人ほど、威張らず謙虚になる。
反対に、まだ中身が十分に育っていない人ほど、自分を大きく見せようとする。
そのような意味が込められています。
謙虚というと、自分を卑下したり、何でも遠慮したりすることだと思われるかもしれません。
しかし、私は本当の謙虚さとは、自分の実力を否定することではないと思っています。
努力して得た技術や経験は、正しく認めてよい。
空手の試合で結果を残したことも、長年続けてきたことも、決して隠す必要はありません。
ただし、それを理由に他人を見下したり、自分だけが特別だと思ったりはしない。
それが謙虚さではないでしょうか。
謙虚さとは、今この瞬間の自分を受け入れることでもあります。
その考え方は、心配や不安との向き合い方にもつながっています。

先生から何度も聞いた言葉
この言葉は、私が空手を始めて間もない頃、先生から何度も教えていただいた言葉です。
当時の私は、まだ空手を始めたばかりでした。
先生がなぜ、この言葉を繰り返し伝えていたのか、当時は深く理解できていなかったと思います。
単に「威張ってはいけない」「謙虚でいなさい」という意味だと受け止めていました。
しかし、長く空手を続け、少しずつ人に教える立場になった今、その意味が以前よりも深く感じられるようになったのです。
人は、力がないときより、力を持ったときに本性が表れます。
自分の意見が通るようになったとき。
人から敬語を使われるようになったとき。
誰かを注意したり、評価したりする立場になったとき。
そのときに、どのような態度を取るか。
そこに、その人が何を学んできたのかが表れるのだと思います。
若い頃に聞いた教えが、何十年もたってから自分の中で意味を持ち始める。
武道の教えとは、そのようなものなのかもしれません。
いつも原点に戻りたいと思った時に読みたい記事です。

仏教でいう「慢」とは

仏教には「慢」という考え方があります。
慢とは、自分と他人を比較し、自分を上に置いたり、反対に下に置いたりする心です。
一般的には「自分は優れている」と思うことだけが慢心だと思われがちです。
しかし仏教では、自分を必要以上に低く見て「どうせ自分なんて駄目だ」と考えることも、比較にとらわれた状態だと考えます。
上か下か。
勝ったか負けたか。
偉いか偉くないか。
この比較から離れられないこと自体が、心を苦しめる原因になります。
空手でも、勝ち負けや帯の色、年齢、立場に意識を奪われることがあります。
けれども、本来の稽古は、誰かより上になるためだけに行うものではありません。
昨日の自分より少しでも成長すること。
目の前の相手を尊重すること。
できないことを素直に認め、稽古を続けること。
そこに武道の本質があるのだと思います。
慢とは、自分を偉いと思う心だけではありません。
「自分は相手より上だ」
「自分は相手より下だ」
「勝った」「負けた」
このように、常に人と比較してしまう心そのものを、仏教では「慢」と考えます。
「慢から離れるとは、自分をなくすことではありません。
比べることをやめ、目の前の一歩に集中することだと、私は空手と仏教の両方から学びました。」
上の立場になって気づいたこと
私は31歳で空手を始め、20年以上稽古を続けてきました。
現在では、支部の中でも年齢や稽古年数の面で、ある程度上の立場になっています。
試合にも出場し、優勝した経験もあります。
長く続けていれば、後輩や周囲の人が気を遣ってくださる場面も増えます。
話を丁寧に聞いてくれる。
意見を尊重してくれる。
荷物を持とうとすると、「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれる。
ありがたいことです。
しかし、それを自分自身の偉さだと勘違いしてはいけません。
周囲が敬意を示しているのは、私個人の人格だけではなく、帯や稽古年数、道場の中での立場に対するものでもあります。
その立場を取り外し、誰も私のことを知らない場所へ行けば、私はただの一人の人間です。
空手の帯も、試合の成績も、過去の経歴も、知らない人から見れば何の意味もありません。
この事実を忘れたとき、慢心が始まるのだと思います。
副班長になり、見えたもの
今回の空手合宿では、私は班長ではなく副班長を務めました。
ここ数年は、参加者の中で私の帯が上だったこともあり、班長を任されることが多かったのです。
班長になると、砂浜稽古や早朝稽古の内容を考えなければなりません。
責任も重く、周囲を見る余裕が少なくなっていた部分もあったと思います。
今回は副班長だったため、少し違う位置から合宿を見ることができました。
誰かが荷物を運んでいれば、自分も手伝う。
準備が必要なら、頼まれる前に動く。
困っている人がいれば、「私がやります」と声を掛ける。
そのような小さな行動を、自分なりの修行として意識しました。
上の立場だから動かなくてよいのではありません。
上の立場だからこそ、先に動く。
後輩に指示する前に、自分が姿勢で示す。
それが本来の武道の先輩の姿ではないかと思います。
もちろん、私はいつでも謙虚でいられるわけではありません。
心の中に「自分はこれだけやってきた」という思いが出ることもあります。
だからこそ、自分の心を観察する必要があります。
「今、偉そうになっていないか」
「人の話を聞かず、自分の考えだけを押し付けていないか」
「後輩が気を遣っていることに甘えていないか」
この点検を続けることも、空手の稽古の一部だと思っています。
会社で管理職をしたときも同じだった
空手だけではありません。
私は過去に、会社で一時期、管理職を務めたことがあります。
役職が付くと、周囲の態度が変わります。
話を合わせてくれる人が増える。
意見を否定されにくくなる。
少し持ち上げられたり、ちやほやされたりすることもありました。
その状態が長く続くと、それが自分の人間性に対する評価だと思ってしまいます。
しかし、役職を外れれば、周囲の反応も変わります。
そのとき初めて、敬意のすべてが自分個人に向けられていたわけではないことに気づきます。
役職は、会社の中で一時的に与えられた役割です。
空手の帯も、道場の中で積み重ねてきた努力を示すものではありますが、人間としての価値を決めるものではありません。
肩書きや帯がなくても、人に親切にできるか。
誰も見ていなくても、率先して動けるか。
自分より立場の弱い人に、丁寧に接することができるか。
その部分に、本当の人間性が表れるのだと思います。
農業を始めて、この言葉の意味が変わった
最近、私は農家の仕事を手伝うようになりました。
畑で働き、土に触れ、野菜を収穫し、農家の方々の仕事を間近で見るようになりました。
その経験を通して、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を、以前とは違う感覚で受け止めるようになりました。
農作物は、口では何も言いません。
ただ土の中で育ち、時期が来れば実をつけます。
実が大きくなるほど、枝や茎は重みで下がっていきます。
人間も同じなのだと思います。
本当に経験を積んだ人は、自分の未熟さも知っています。
失敗したこと。
人に助けられたこと。
自分一人では何もできなかったこと。
それらを知っているからこそ、自然と頭が下がるのではないでしょうか。
経験の浅い頃は、自分の力だけで成果を出したように感じることがあります。
しかし、長く生きていれば、自分一人の力で成し遂げたことなど、ほとんどないと分かってきます。
空手を続けられたのも、指導してくださる先生や先輩、稽古相手、家族の理解があったからです。
仕事を続けてこられたのも、会社や同僚、取引先など、多くの人とのつながりがあったからです。
そう考えると、感謝する理由は増えていきます。
本当の謙虚さとは、自分を小さくすることではない
謙虚でいようとすると、自分の実績や意見まで否定してしまう人がいます。
しかし、それは少し違うと思います。
自分が努力してきたことは、認めてよい。
できることは、自信を持って行えばよい。
必要なときには、自分の意見をはっきり伝えることも大切です。
ただし、自分の考えだけが正しいとは思わない。
他人にも、自分には見えていない経験や事情があると考える。
人から褒められたときには、「自分一人の力ではない」と思い出す。
それが、本当の謙虚さではないでしょうか。
強い人とは、相手を押さえつける人ではありません。
自分の力を、弱い立場の人を守るために使える人です。
上の立場にいるからこそ、相手の緊張や不安に気づく。
経験があるからこそ、できない人を責めずに支える。
そのような優しさを持つことが、本当の強さにつながると私は考えています。
LifeSpiritで大切にしている、
優しさこそ真の強さ
という言葉も、まさにこのことを表しています。

慢心しないために、今日からできること
慢心を完全になくすことは難しいと思います。
私自身も、心の中に慢心が出てくることがあります。
大切なのは、慢心しない立派な人間を演じることではありません。
「今、少し偉そうになっていたかもしれない」
と気づくことです。
気づいたら、行動を一つ変えればよいのです。
今日一日だけでも、次のことを意識してみてください。
人より一つ先に動く。
落ちているゴミを拾う。
靴が乱れていたら並べる。
誰かが荷物を持っていたら手伝う。
いつもより一回多く「ありがとう」と伝える。
どれも大きなことではありません。
しかし、誰も見ていないところで行う小さな行動には、その人の生き方が表れます。
謙虚さは、頭の中で考えるだけでは身につきません。
毎日の行動によって、少しずつ育っていくものだと思います。
まとめ|立場が上がるほど、自分を点検する
人は、経験を積み、立場が上がるほど、周囲から丁寧に扱われるようになります。
そのことに感謝しながらも、それを自分の偉さだと勘違いしないことが大切です。
空手の帯も、会社の役職も、試合の実績も、その場所を離れれば通用しないことがあります。
それでも残るものは、どのような立場の人にも丁寧に接する姿勢です。
困っている人がいれば手を差し伸べる。
人より少し先に動く。
自分の未熟さを忘れない。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
この言葉は、若い頃にだけ必要な教えではありません。
むしろ、経験を積み、人から評価されるようになったときほど、必要になる言葉です。
私もこれから、空手でも、仕事でも、日常生活でも、この言葉を自分の中に置いておきたいと思います。
実力がついたときこそ、頭を下げる。
立場が上がったときこそ、先に動く。
そして、自分の力を人に優しくするために使う。
それが、私の目指したい強さです。

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