「続けよう」と決めたのに、気づけばやめている。
ブログも、勉強も、筋トレも、資格の勉強も。
最初は本気なのに、なぜか続かない。
動画を見て学んだ。
本を買った。
ノウハウも集めた。
でも、身についた実感がない。
そして、また新しい方法を探し始める。
――これ、全て昔の私です。
私は「努力が足りない」のだと思っていました。
「もっと技術を学べば続く」と思っていました。
でも、本当の問題はそこではなかった。
足りなかったのは、技術ではなく――
“整っていない心”でした。
何をしたらいいか分からない──だから三日坊主になる
技術を身につけることが悪いとは、私はまったく思っていません。
目的があって磨く技術は、人生を確実に前に進めてくれます。
努力は裏切らない。これは本当です。
でも――
私はいつの間にか、
「目的のため」ではなく、
“技術そのもの”を追いかけるようになっていました。
WordPressやHTMLに執着
WordPressを触る。
HTMLを覚える。
ドットインストールを一年間続ける。
できることは増えました。
知識も増えました。
けれど、なぜか前に進んでいる感覚がない。
今思えば、私は技術を磨いていたのではなく、
不安から逃げていただけだったのかもしれません。
本当に向き合うべきは、
「なぜ書きたいのか」
「誰のために続けたいのか」
そこだったのです。
「形」ばかり整えようとしていた
技術が身につけば、自信もついてくる。
そう思って、私はいろいろなことを始めました。
プログラミングを独学で学び、
WordPressを触り、
HTMLやCSSも覚えました。
確かに、できることは増えました。
「自分にも作れるんだ」と思える瞬間もあった。
でも――
では、何を作りたいのか?
何を届けたいのか?
そこを問われると、答えが出ない。
武器や道具は集めている。
けれど、戦う理由がない。
そんな歯がゆさが、ずっと胸の奥にありました。
何をしたらいいか分からないとき、答えは自分の中にある
「私は何を訴えられるのか?」
「自分には何があるのか?」
「そもそも、自分とは何者なのか?」
技術を磨きながら、
私は一番大事な問いから逃げていたのかもしれません。
空手の存在
改めて自分を見つめ直したとき、
残ったものは――空手でした。
20年以上続けてきたもの。
逃げずに向き合ってきたもの。
では、なぜ私は空手をやっているのか。
それは、強くなりたかったからです。
肉体的にだけではありません。
精神的に安定した人間になりたかった。
揺れない軸を持ちたかった。
空手では人格までは変えらてない
私の先生は常日頃、「空手だけでは人格は変えられない」
とおっしゃっておりました。
精神的な強さを求めて、空手を始めたものの、
先生からそのように言われて少し戸惑いましたが、
強くなることには変わりはない。
とことんまでやってやろうと思ったんです。
仏教との出会い
空手の稽古では、空手以外のことでも大きな学びがありました。
それは、空手の先生から仏教の教えを学んだことです。
そこで初めて気づきました。
肉体と精神を鍛える空手。
煩悩や欲望と向き合う仏教。
私は、本格的に仏教の経典や書物を読みまくり、
仏教の教えを頭に叩き込みました。
肉体と精神を鍛えるだけでは物足りず、
仏教の教えが入ることで、さらに磨かれる。
これは別々ではなく、
ひとつの道になるのではないかと。
私はそこで、ひとつの“自分なりの修行”を考えました。
空手で身体と心を鍛え、
仏教で欲と向き合い、
自分を整えていく。
技術を磨く前に、まずは自分を磨く。
遠回りして、ようやくそこに戻ってきたのです。
まとめ(行動喚起)
私はずっと、
続かない原因を「努力不足」だと思っていました。
だから技術を磨いた。
知識を増やした。
武器を集めた。
でも続かなかった。
なぜか。
心が整っていなかったからです。
目的が曖昧なまま、
不安を埋めるように技術を追いかけていたからです。
空手を続けられたのは、
「強くなりたい」という明確な軸があったから。
仏教を学び続けられたのは、
「自分を整えたい」という切実な理由があったから。
人は、技術では続きません。
理由で続きます。
もし今、何かが続かなくて悩んでいるなら、
問い直してみてください。
「自分は何のためにそれをやりたいのか?」
技術を増やす前に、
ノウハウを探す前に、
まずは心を整えること。
続かない自分を責める必要はありません。
整っていなかっただけです。
小さくてもいい。
今日できる一歩を決める。
そして、理由を持つ。
技術より先に、自分を磨く。
遠回りに見えて、
それが一番の近道です。
続かない
三日坊主
心を整える
自己成長
継続できない理由
仏教
内省

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