「強くなりたい」——そう願って空手を始めたのは、今から約20年前のこと。
当時は、試合で勝つことが強さの証だと信じて疑いませんでした。けれども50歳を超えた今、ようやく気づいたのです。
本当の強さとは、心の在り方だったのだと。
この記事では、私が実体験を通して学んできた“心の強さ”への気づきを、空手の試合・挫折・そして仏教との出会いを交えてお話しします。
意外だった現在の自分
50歳を過ぎた今も、私は極真空手の世界で戦い続けています。まさか自分がここまで続けるとは、正直なところ想像していませんでした。
若いころは、何かを「続ける」こと自体が苦手だった私が、今こうして空手を軸に生きている——それは、単に格闘技としての空手を超えた「何か」に出会えたからです。
空手を始めた本当の理由
私が空手を始めたのは31歳の時。喧嘩に強くなりたいとか、そんな動機ではありませんでした。
当時の私は、仕事や人間関係のストレスに押し潰されそうになっていて、「精神的に強くなりたい」と本気で願っていたのです。
師匠はこう言いました。「健全な精神は健全な肉体に宿る」
だから私は、体を鍛えれば自然と心も強くなると信じて、ひたすら稽古を重ねました。

強くなったはずの自分が、なぜ苦しみ続けたのか?
30代・40代の私は、試合に出続けていました。勝ちにこだわり、大会で何度も優勝もしました。でもある日、ふと気づいたのです。「心は全く変わっていない」と。
怒りに振り回され、不安に苦しみ、他人との衝突も多かった。それもそのはずでした。
私は「身体を鍛えること」ばかりで、「心を磨くこと」には真剣に取り組んでいなかったのです。
心をどうすれば鍛えられるのか。その答えを探し、私はようやく仏教という教えに出会いました。
強さの秘密とは?
本当の意味で「強くなる」ためには、身体だけでなく、心を磨くことが必要です。
では、どうすれば心は磨かれていくのでしょうか?
空手の修行を通して学んだこと
空手の稽古では、もちろん技の習得や体力強化が大切です。しかし、それだけでは不十分でした。
私が心の成長を感じられたのは、試合で勝ったときではなく、大会の裏方を手伝ったり、審査会の準備に奔走したり、あるいは出場選手を陰から応援する中で、人としての姿勢を問われた瞬間でした。
それはまさに「誰かのために動く」という経験であり、武道を通じて“利他”を実践することでもありました。
仏教の教えとの出会い
そしてもう一つ、私にとって欠かせなかったのが、仏教の教えでした。
瞑想やマインドフルネスを通じて自分の内面を静かに見つめ、日々の生活の中で
**「怒らない」「妬まない」「奪わない」**といった教えを意識的に実践する——
その積み重ねこそが、心を鍛える修行だったのです。
誰かと競い合って勝つことではなく、自分の未熟さや傲慢さと向き合い、少しずつでも超えていこうとする“日常の修行”に宿るのだと確信しています。
本当の強さは、心の中にある
本当の強さとは、「心の強さ」であり、それは仏教の教えによって初めて育まれるのだと、私は今確信しています。
試合に勝つことだけが空手ではない。「生きるための空手」こそが、私にとっての新たな道。
私の修行の旅は、──今、ようやく本当の意味で始まったばかりなのかもしれません。

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